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お身体を大切に

 

暗い掘割りの底の遠く遠くに小さなイルミネーションのような中野駅が見える。

 今乗って来た山の手電車は、蒼白いスパークをレイルに反射させながら、その方向へ一直線に、小さく小さく吸い寄せられて行った。

 暗い掘割りの一町ばかり向うに、黒い木橋が架かっている。その左手には高い火の見梯子が見える。それと向い合って、木橋の右手の坂下には、私の家の門口にある高さ三丈ばかりのユーカリの樹が梢を傾けているが、その上空には無数の星が明日の霜を予告するように羅列している。冬のおわりの最も澄み切った、厳粛な夜である。

 私は急に気分が引き締って来るのを感じた。一事、一物も見逃してはならないぞ……後で笑われるような軽卒な事をするまいぞ……死生を超越した八面玲瓏の働きをするのだぞ……そうして徹底的にやっつけるのだぞ……と改めて自分自身に云い聞かすように考えながら、もう一度腰のポケットを撫でてみた。全く、これ程のものを相手にしたのは今度が初めてである。従ってこれ程に精神が緊張したこともまだ曾てない。どんな難事件に出会っても、どんな強敵を相手にしても、綽々として余裕を保っていた私の精神は……身体はギリギリと引き締まって、ちょっと触っても跳ね上る位になっていた。

 併し表面は飽くまでも平静を装うていた。今の電車から降りた官吏や、学生や、労働者らしいものが十二三人急いで行くのに混じって、悠々と大胯に踏切を越えた。平生よりももっと当り前の(もしそんな状態があり得るとすれば)歩きぶりで自分の家の門まで来た。

 見ると出がけに確かに閂を入れて南京錠を卸しておいた筈の青ペンキ塗りの門の扉が左右に開いて、そこから見える玄関の向って左の一間四方ばかりの肘掛窓からは、百燭ぐらいの蒼白い電燈が、煌々と輝き出している。

神保町 歯医者

 

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